| 2001年5月27日に刈羽村で行われたプルサーマル(*1)受け入れの是非をめぐる住民投票は、本パンフで刈羽村議の近藤容人氏が報告しているように、反対派が劇的な勝利をおさめた。投票率88.1%、反対は1925票で有効投票の53.4%と過半数を超え、賛成は1533票で42.6にとどまった。その差392票をどう見るかは判断の分かれるところだが、それほど大きいとは言えない。しかし筆者の予想をくつがえして保留が131票、3.6%ときわめて少なかったことは注目に値する。それは村民一人ひとりがぎりぎりの所まで考え、選択したということを示しているからだ。これも近藤氏の報告にあるように、ここに至るまでには、1998年夏以来の真剣な議論があったのである。住民投票条例は一度目は圧倒的多数によって否決され、二度目は村長が再議に付したために廃案となり、そして三度目の正直でようやく成立、実施に至ったのである。刈羽村民の実にすばらしい成果である。
この住民投票の意義は大きく見て二つあると考えられる。第一は言うまでもなくプルサーマルを受け入れるか否かを住民自身が考え、決定したことである。保留の少なかったことの意味は重要である。およそ4戸に1戸の割合で家族の誰かが原発関係の職場で働く、いわば東電城下町というべき刈羽村において、村民たちはさまざまな圧力をはねのけて自らの意志を表明した。「国策」として進められている原発に反対する者は「国益を損なう者」であるかのごとく非難する地元有力者や原発推進派の圧力に屈しなかったのだ。またプルサーマルをやめれば原発は運転できなくなり、原発に働く者は失業する、という露骨な賛成強要をはねのけた。佐藤武雄刈羽村を守る会会長は「村民の良識でかつことが出来た」と語ったが、巻町と同じように、自分たちの村のことは自分たちで決めたのである。まさしくこの住民投票は自治の根本を発揮したものといえる。
第二は住民投票の結果、事実上プルサーマルは当面不可能になったということである。もしこの状況が続けば、それこそ東京電力や原発推進派が言うように余剰プルトニウムの処理が出来なくなるから1960年代から進めてきた核燃料サイクル計画は破綻せざるをえない、つまり再処理→プルトニウム利用という原子力政策は大きな変更を強いられるというわけだ。柏崎・刈羽でプルサーマルが止まれば、おそらく福島でも福井でも止まり、そうなれば六ヶ所の再処理工場も不要になるし、イギリスやフランスの再処理工場も採算割れをして閉鎖に追い込まれるだろう。刈羽村の住民投票は日本だけでなく世界の原子力政策を変える契機となりうるのである。
刈羽村では原発建設が始まる前、とくに70年代前半においては全国の原発立地点の中でもとりわけ厳しい大衆運動が展開された地域の一つである。刈羽村の中心である大字刈羽では選挙で反対派が執行部に選ばれ、電力の介入によって部落が分裂するまで数年に渡って部落を運営した。刈羽の婦人たちの直接行動は推進派の政治家たちを何度も震え上がらせるほど元気だった(*2)。しかしその後十数年住民の運動は沈滞を余儀なくされてきた。今その刈羽村の中で何が起こっているのか。原発にどっぷりつかり、新潟県下でも最も豊かな財政を誇り、人口5千人ほどの村では使い切れない固定資産税が入る村で、「金だけで生きているんじゃないぞ」と怒りを爆発させたのが今度の住民投票だったのではないか。
住民投票から2ヶ月半たった8月中旬、東京電力は多数の人員を注ぎ込んで本格的な巻き返しの活動を始めている。反対派がここで手を抜いたらすべて元に戻ってしまうだろう。
刈羽村のプルサーマル受け入れ拒否の闘いを振り返りつつ教訓化し、政府・東京電力による巻き返しを阻止するための資料としてこの冊子は編まれたのである。
*1
炉心の3分の1にMOX燃料(猛毒のプルトニウムとウランとの混合酸化物燃料)を使用して発電する。プルサーマルは1995年12月の高速増殖炉「もんじゅ」の事故の結果、余剰プルトニウムを処理する必要上急遽推進が決まった。いわば日本の核燃料サイクル計画の鬼っ子であり、日本の原子力政策の大幅な路線変更を意味する。
*2
この時期の柏崎・刈羽の住民運動については、高柳謙吉の「放射能から命を守る闘い−柏崎原子力発電所建設阻止闘争−」(『新地平』1974年11、12月号)を参照。 |