第82回いろりばた会議録(2004年1月22日開催)スペシャル
ヒバクし続ける私たちの世界
〜映画「ヒバクシャ〜世界の終わりに」の現場から〜
〈前半〉

鎌仲さんの写真

鎌仲 ひとみさん
(映画「ヒバクシャ」監督)


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〈前半の目次〉

イラクも原爆も関係ないと思っていた

伊藤政子さんと出会う、1998年11月イラクへ

肥田舜太郎医師と出会う

2002年再びイラクへ、「被曝を撮る」ということ

ムスタファと出会う、家族を描きたかった

トム・ベイリーと出会う

しょっているもの




いろりばたマーク

●イラクも原爆も関係ないと思っていた●  [↑目次へ

 どうも、こんにちは。鎌仲です。「ヒバクシャ」という映画を制作というか、監督いたしました。この会場でもたくさん見ていただいた方がいらっしゃったので、とてもうれしいです。ありがとうございます。

 何からお話しすればいいかというと、その「ヒバクシャ」を作ってからの経過みたいなものをちょっとお話ししようと思うんですけれども、実は、もう160カ所から申し込みいただいて、日本全国で上映が広がっています。例えば、反原発であるとか反戦であるとか、あるいは単純に平和活動とか、あるいは戦争を語り継ぐ会などのグループですね。
 あるいは私、地域通貨の番組を以前にNHKで作りまして、「エンデの遺言」と言うんですけれども、これは「経済と環境は共存できるか」と。われわれが今持っているような経済システムが、環境を保護するということと調和できるのだろうかということを、もう亡くなったドイツのファンタジー作家であるミヒャエル・エンデさんが言った言葉を掲げて、世界中をそのお金の可能性、違うお金のシステムを私たちが持てるのかという可能性を探っていくという番組をやったんです。
 そういう番組を流しましたら、今日本で300の地域通貨を作るグループが立ち上がってまして、そういう所からも呼んでいただいています。ですから、そういう多様なグループが映画を上映してくださっています。

 それで、私自身はこの「ヒバクシャ」という映画を作りはしたんですけれども、皆さんのようにこういう勉強会に出て勉強したことがなくて、核とか原発とか、あるいは戦争ということに関してもすごく無知だったんですね。で、私はドキュメンタリーというものを作って、それをテレビで放送したり映画にしたりして、それを生業にして生きているわけですけれども、そのドキュメンタリー作品を作るときに、テーマとして、今この現代に生きている個人としての私と関係があるというか、これは私にとってものすごく関係がある、自分がそれに関わっていることだと思えることをテーマに選んで作品を作ってきたんですね。
 で、その中にイラクとかヒバクシャとか原爆っていうことは全然なかったんです。アイデアとしても発想としても、そういうものに関して作品を作ろうと考えたことは一度もなかったんですね。それは今生きている自分とそんなのは、もう関係ないんだと思っていたんです。日本に生きていて、本当にそれは今から思うと恥ずかしいことなんですけれども、原爆はもう58年前に終わったことだし、まあイラクは遠いしね、そしてその原発のことに関しても、本当に興味はなかったんです。


●伊藤政子さんと出会う、1998年11月イラクへ●  [↑目次へ

 それなのに何でこの「ヒバクシャ」という映画を作ることになったかといいますと、1998年の5月ぐらいに、このたんぽぽ舎さんの劣化ウラン弾のパンフレットにも書いていらっしゃいますけれども、伊藤政子さんという方の報告会に、たまたま行ったんです。それは、私は医療というものに興味があって、「あなたはもう治らないよ」って言われた癌患者さんを1年ぐらい追いかけたりとか、あるいは心の病っていうか、人間と病気の関係というものにその時はすごく興味があったんですね。で、その伊藤さんが病気になっているイラクの子供の話をするというので、それでちょっと聞いてみようかなという軽い気持ちで出掛けたんです。
 そうしたら、まあ皆さんご存じのように、イラクではその子供たちに癌とか白血病が戦後すごく増えていて、それで薬もないと。それで、彼女が撮ったスナップ写真なんですけど、そういうものを見せながら報告なさったんですね。で、それを聞いて、私はそういうことを全然知らなかったし、その前からイラクに関しての報道がいつもアメリカ経由であるっていうことに対しては、ずっとおかしいとは思い続けていたので、直接イラクの普通の人たちがどういうふうに生きていて何を考えているのかっていうことを、アメリカ経由ではなく、単に大量破壊兵器だとか政治の話ではなくて、自分と同じ人たちがどういう日々を送っているのかということは、ものすごく知りたいと思ったんですね。

 で、伊藤さんと1998年の11月にイラクに行きまして、その時はNHKの番組を作るために行きました。それは湾岸戦争8年後のイラクの子供たちがどう生きているのかということで、政治的なことは何も話題にしませんよっていう約束をして予算を出してもらって行ったんですね。まあイラクっていうのは、私もその番組を作る時にはちょっとイラクの勉強をしまして、いろんな文献とかインターネットで調べたりはしたんですけれども、だけどイラクに関する情報が、本当に日本の中で日本語で書かれた情報が98年当時はものすごく少なかったんですね。で、それはもう現地に行って自分で調べるしかないっていうか、自分で実際いろんな場所に行って、いろんな人に話を聞こうと。そうして行きました。
 で、病院に行きましたら、すごく立派な病院なんですよね。イラクの医療システムっていうのは大変進んでいて、サダム・フセインは確かに悪い独裁者だったかもしれないけれども、イラクの石油を売ったお金で医療システムっていうのはものすごく整備していたんですね。それですべての国民がただで治療を受けることができるシステムができていて、だから湾岸戦争前はどんな人でも病気になったら無償の医療サービスを受けられたんです。
 ところが、私が行った98年ではそうではなくて、経済制裁っていうものがあって、しかもさまざまなインフラストラクチャーを湾岸戦争で破壊されたまま、それを再建することもできず、経済制裁のもとにいろんな物資が不足してあえいでいる。で、薬がない。まあ、薬がない前に食料がない状態ですね。だから、子供たちが半栄養失調状態というか、「栄養失調の子供」と「何とかかんとか栄養が足りている子供」の間に全員がすぽっと入っているというか、本当に栄養が足りている子供はもうごく限られた少数っていう感じで、何となくみんな体が小さいっていうかね、十分食べてない、飢えてるっていう感じなんです。アフリカの子供たちほど飢えてないんだけれども、栄養状態が悪いなあっていう感じの子供たちに、もうなっていました。

 で、確かに癌と白血病の子供たちが増えていて、それで本当に薬がないってどういうことかっていうと、癌とか白血病っていうのは最初は見かけがそんなに変わらないんですよね。例えば、すごい幼い子供が腎臓とか肝臓に腫瘍ができるときには、最初はそんなに見かけは変わらないんですけれども、薬がないからだんだん腹水が溜まってくるし、それがぱんぱんに腫れてくるし、体の免疫力が落ちて感染症が出てくる。で、白血病だと、薬がないと鼻血が出てくるんですね。あちこちから出血しても止まらなくなります。そういう状態になって苦しんでいても、本当に必要な薬はそのときあったりなかったりっていう状態なんですね。

 その子供たちにしてみれば、それは何で自分がそうなるのか客観的に分からないので、まあ黙って死んでいくっていう感じなんですよね。それで、ああ、黙って死んでいくんだ、この子たちは、と思ったんですよね。まあ、つらいのは親なんです。でも、それを見るっていうこともすごくつらいことですし、本当にそれは衝撃的でした。
 それは現象としては病気で死んでいくんですけど、殺されていってるに等しいなと思えたんですよね。ただ、その時は私は先程申し上げたように無知だったので、何で湾岸戦争が終わって8年もたってるのに、その湾岸戦争以降に生まれた子供たちがそうやって死んでいかなきゃならないのかっていうことに関する理解がすごく浅かったんですね。だから、それは被曝で死んでいくんだっていうふうには思ってなかったんです。病気なのに薬がなくて死んでいくんだというふうにしか見えなかったんですね。で、それは経済制裁が悪いんだと。その罪もない子供たちが死ななきゃならない。薬があったら助かるのに、抗がん剤が大量破壊兵器の材料になると言って、イラクに入らないようにしている。そんな馬鹿馬鹿しいことをやって、イラクの子供たちを死なせても放ったらかしにしている国際社会が悪いと思っていたんですね。


●肥田舜太郎医師と出会う●  [↑目次へ

 で、日本に帰ってきて、NHKの番組はそういうふうに作ったんです。イラクにおける経済制裁の非人道性っていうものをテーマにした、そういう番組を作ったんですね。ところが、そういうものを作ってもやっぱりイラクの子供たちの状況は変わらないので、私は肥田先生に会いに行きました。
 肥田先生というのが私の映画に出てくるんですけれども、今年の1月1日で87歳におなりになります。私が会った時は83歳でした。肥田先生は広島で被爆して、ずっと戦後ヒバクシャだけの治療をやっていらっしゃったわけですね。で、肥田先生に会いに行きなさいって言ってくれたのは、森住卓さんという写真を撮ってる方なんです。98年に一緒にイラクに行って、そこの状況はひどいと。で、日本が何か医療サポートができないか、どこかにそういうことを真剣に考えてくれるお医者さんがいないのかっていうようなことをみんなに言っていたら、森住さんが「じゃあ、肥田先生に会いに行きなさい」と。それで、肥田先生に会いに行きました。
 で、肥田先生に、イラクではこんなことが起きているんですよっていう説明をしたら、すぐ肥田先生は分かって、「イラクの子供たちに起きているのは被曝である」と。「その体内被曝というものはDNAが傷つくから、それを治すことはできないんだ」ということをおっしゃったんですね。

 それで、私にとっては、イラクの子供たちに出会ったということと、日本に帰ってきて肥田先生に出会ったということが、ダブルの衝撃になって、ああ、そうか、イラクの子供たちもヒバクシャだったんだと。で、その被曝は根本的に治療することができないものなんだと。しかもそれはどんどん増え続けているんだ、っていうことを思ったんですね。

 そうしたら、自分の住んでいる日本の足下にいる日本のヒバクシャについても何も知らなかったということに思い至り、ヒバクシャっていうのはいったいどういう人たちなんだろう、日本のヒバクシャはいったいどうなっているのかしらっていうことで、肥田先生の診察していらっしゃる、埼玉に住んでいるヒバクシャの方たちに話を聞き始めたんですね。
 それで、その人たちはその原爆が落っこちて被爆した58年前は、10歳だとか、みんな子供だったんですね。まあ、本当に平均年齢12、3歳くらいで。そうすると、ああ、何だ、この人たちが被爆したのは、そのイラクの子供たちと同じくらいの年だったんだなあ、と。で、たまたま、いろんなことがあって生き延びてこられた方たちがこうやって今いるけれども、でもその子供時代に被爆したあと、イラクの子供たちのようにたくさん死んでいったんだなあということも見えてきました。

 そうしましたら、58年も昔のことだと思っていたことと、それから遠いイラクで起きている特殊な事情(経済制裁という事情と、放射能兵器である劣化ウラン弾を使われたという事情)が、非常に個人的な部分なんですけれども、私の中で時間とか空間的な距離を越えて一緒になったんですね。それで、そういうヒバクシャっていう存在の本質みたいなものが、自分の中で何かこう、「落っこった」ような感じがあって、ああ、そういう存在なんだ、黙って死に続けてきたんだというふうに思えたんですね。
 で、そういう存在から世界がどう見えるんだろうと。どう生きてきたんだろう、どう生きていくんだろうと。まあ、そういうことを映画にしようと決めたんですね。


●2002年再びイラクへ、「被曝を撮る」ということ●  [↑目次へ

 それで撮り始めたんですけれども、最初は何も知らないで始めたので、本当に一つ一つが驚きで。ですから、98年にイラクに行った時は、経済制裁で薬がないから子供たちが死んでいくんだっていうことしか見えなかったので、もう一回、じゃあイラクの子供たちとかイラクの人たちはどう被曝をするのかっていうことを撮らなきゃいけないと。それを映像化しなくちゃいけないと考えて、それで2002年にもう一度イラクに戻りました。

 というのは、98年には病院での子供たちしか撮っていなかったからなんですね。で、その被曝がいったいどういうふうに人間に起きるのかと、劣化ウラン弾というものが人間を殺していくということはどうしたら見えるんだろうと。だから、それは目に見えないわけですよね。目に見えないし、非常にゆっくり進行する。だけど、それは起きてるわけです。で、それを撮るとしたら、いったいどうしたら見えるんだろうって考えました。
 劣化ウランは皆さんご存じの通り、爆発すると微粒子になって飛び散るんですね。気体となって飛び散るわけですよね。山崎さんがいつもご説明してくれると思うんですけれども。そうしますと、その微粒子がずっと空中に残留し続けるとか、あるいはイラクのような砂漠地帯ですと乾燥してますから、土の中にそれが粉塵となっていつもあるっていうことなんですね。で、すごい微粒子で細胞の4分の1ぐらいしかない大きさなので、一回呼吸をするとそれが体の中にたくさん入っていく。で、体の中に入っていくと体内被曝をする。
 ということは、イラクに生きている一人一人すべての人が、水を飲んだり、単純に道を歩いたり、あるいはご飯を食べたり、イラクで育った作物を口にしたり、あるいはイラクに生えている草を食べた牛の肉を食べたり、それから山羊の乳を飲んだりすれば、必然的に自分の体の中に放射能を取り込むことになる。もう24時間、一瞬一瞬が被曝に繋がっているんだっていう、そういうことなんですね。ということは、どこの部分を取ってもイラクの人たちの生活そのものが被曝だっていうことです。

 ですから、バスラで98年に会った、ラシャという名前の亡くなった14歳の女の子はバスラから来ていたし、湾岸戦争で最も劣化ウラン弾が使われたのは南部だったので、バスラでもう一回そういう子供たちを撮ろうと思いました。で、ムスタファという男の子と出会いました。


●ムスタファと出会う、家族を描きたかった●  [↑目次へ

 で、ムスタファは8人も兄弟がいるのに、その8人の兄弟の中で彼だけが白血病になったんですね。確かにその白血病の発症率は高くなっていますけれども、日本だと子供の場合は10万人に1人が白血病に自然になる率なんですよね。それが、その98年にイラクに行った時は4倍だよって言われたんです。ということは、10万人に4人ですよね。
 それがバスラのジュワード先生とジィナン先生という先生が日本に呼ばれてやってきて、自分たちの調べた調査ではこうだよっていうことを日本で報告した時には、そのムスタファが住んでいる辺りはバスラから100キロほどバグダッドに戻った辺りなんですけれども、その彼らの調査によりますと、そこが50倍になっていたんですね。だから、10万人に50人がなってしまうということですね。でも、「10万人に50人」というと、なんというんでしょう、だから全員がなるっていう感じではないんですよね。でも、誰かがそのくじを引いて病気になる。それは本当に確率的なものだと思うんですね。でも、それまではならなくても済んだ49人がそうやって白血病になっているという状況です。

 で、そのムスタファに出会ったのも本当に偶然で、病院に訪ねていったらたまたまお父さんと一緒にそこにいたんです。で、まあ会って一目で気に入ったんですね。というのは、私は家族を描きたいと思っていたんですよね。被曝というものが人間をどうむしばんでいくのかっていったら、それは確かにその人を殺すとか、癌や白血病にする、あるいは免疫を落とすということはあるんです。けれども、それはいったい何を意味しているのかというと、その個人自身をむしばんでいくというよりも、その家族がそういう病気になった人を抱えるということです。
 例えば、そのムスタファの家族だったら8人兄弟にお父さんとお母さんがいて10人なんですけれども、もちろん本人の苦しみもありますけれども、そういう病気になった家族を抱えるっていうことは、その家族のメンバー全員にとってものすごくつらいことなんですね。で、その家族の人生というか生活もやっぱりどうしても変わりますし、心を痛めたりとかする。また、その病気が治ればいいけれども、治らなかったらその治療のためにいろんな経済的な負担もかかってくるわけですよね。

 だから、単に「核汚染」て一言で言ってしまうと、環境が汚染されてますっていうことなんですが、その核汚染がそこに生きている人間とどう関係があるのかということを描きたいと思ったんですね。


●トム・ベイリーと出会う●  [↑目次へ

 それはアメリカでも同じなんですけれども、アメリカにもヒバクシャがいるということは、アトミック・ソルジャーとかっていうのは分かっていたんです。それは知識として単純に私は知っていましたが、肥田先生と2001年に広島の世界平和大会に行った時に、トム・ベイリーがたまたまそこに来ていて、それで「自分はアメリカのヒバクシャだ」って言ったんです。で、私はだから、アトミック・ソルジャーかしら、それにしては若いわねとかいうふうに思っていて、「どうやって被曝したんですか」って聞いたんですね。そうしたらトムは、ハンフォードという核施設があって、その核施設はマンハッタン計画で原爆の核弾頭用のプルトニウムを造っている所だけれども、そこの連中、つまりアメリカ政府がわざと放射性物質を自分たちの頭上に実験的にばらまいて、自分たちをモルモットのようにしたんだと。「それはわざとだったんだ」ということを、ものすごくエキセントリックに語ったんです。
 で、私はこの人はちょっとおかしい人なのかしら、何か物事をおおげさに言ってる人なんじゃないのかしらと思って、にわかに信じられなかったんですね。アメリカ政府が自分たちの国民にわざわざ放射性物質をばらまいてモルモットにする、と、まあ彼は言ってるわけですよ。そんなことってあるわけがないじゃないかと、その時は思ったんですが、だけどトムはこういうふうに言ったんですよ。
 「自分は56歳だが、自分の小学校の同級生の半分はもう死んでる」と。で、「自分も子供の時にすごい病気になって苦しんだ」と。で、その病気になって苦しんだ時に、やっぱり同じ病気になった金髪のかわいい女の子がいて、彼はその女の子を好きだったんですね。それで、毎晩夜になると、昼間診察するお医者さんとは違うドイツ語訛りのお医者さんが来て、子供たちにいろんなことをしたっていうんです。それは彼の記憶なんですけれども。で、ある晩、その好きだった女の子の部屋に、ぞろぞろと何人もそのドイツ語訛りのお医者さんが来ていろいろやっている時に、彼女は泣き叫びながら死んでしまったんです。

 で、そのあと、彼が病気から本当に奇跡的に治って成長していったときに、同じような人たち、つまりドイツ語訛りがある白衣を着た人々に出会うわけですね。ハンフォードからやってきて、彼の農地の周りにうろうろとサンプルを集めに来たりとか、土壌サンプルを持っていったりとかって。何をしてるんだろう、と。だけど、自分たちが本当に放射性物質を放出されていたんだっていうことが、政府の機密書類によって明らかになったときに、彼の中でそれが一つに合体したというかね、あの時のはそうだったんだと。自分が病気だった。それで、自分と同じような子供たちも死んでいったのはそのせいだったんだということが、彼の中で落ちたんですね。納得がいったというか。
 トムはだから、放射能のせいだとも分からず死んでいったすごく多くの子供たちがいたと。だから、自分はそういう子供たちの声なき声を代表しているんだというふうにおっしゃって、私はそれはすごくね、ああ、そうなのかと。それに関してはものすごく、ああ、この人が言っていることは本当だなと思えたんですね。

●しょっているもの●  [↑目次へ

 それは何でかというと、例えば肥田先生は、広島で軍医をやっていた時に被爆しているんですけれども、たまたま往診を頼まれて6キロ離れた戸坂村(へさかむら)に行っている時に、原爆が落っこちたんですね。朝、その農家にいた時に。で、これは大変だっていうんで、自転車に乗ってその広島の爆心地に向かっていくんですけれども、もう燃えさかっていて中に入ることができない。で、途中で別の部隊にいた同僚の軍医に会って、「おまえは村に戻って、やってくるだろう負傷者の治療にあたれ」と言われるんですね。で、彼はもう一回村に戻る。そうしたら、もう本当にだーっと3万人ぐらいの被爆者が押し寄せてきて、その被爆者をほとんど死なせるんですね。ほとんど生き残らなかったんですよ、その3万人が。彼の手には何の医療機器もなかったし、まあそのあとから応援が来たりしましたけれども、その当時の日本の医療では非常に高濃度に被曝した直爆の人たちを助けることができなかったんですね。で、次々とやっぱり死んでいく。死なせざるを得なかったというか、救うことができなかった。
 肥田先生はそういう、自分が救えなかったおびただしい死というものをしょった存在として生きている。で、だからこそ、戦後ずっと被爆者医療をやってこられたと思うんですけれども、そのことが彼のモチベーションになっているわけですね。

 トムに関して言えば、自分たちが汚染されているっていうことを糾弾する行為に彼が出ている。「おれたちを汚染した政府が許せない、賠償しろ」と言ってるんですけれども、そういうことを言っているのは、そのハンフォードっていう核施設の広大な風下で農業を営んでいる農民の中ではすごく少数派なんですね。「自分たちが汚染された」って言ってしまうと、それまで作ってきた農地、自分たちが生活の糧にしている農地そのものも汚染されているということを世間に向かって言わなきゃならない。そうなると、それしか財産を持たないし、それでしか食べていけない人たちが、やっぱりそういうことはできないわけですよね。でも、敢えてトムはやっているのは、やっぱりその殺されていった人たちをしょってるんだろうなあと、そういうふうに私には思えたんですね。

 それで、私も本当にほんのちょっとなんですけど、イラクの子供たちが亡くなっていくっていうのに立ち会ってしまったから、だからちょっとしょってるわけですね。だから、そういうしょっているところが肥田先生やトムに比べれば、私なんかはほんのちっぽけなものなんですけれども、そのラシャが亡くなる時に「私のことを忘れないで」っていうメモを残していったし、やっぱりそれは忘れることはできないわけですから、まあそういうことでこの映画を作ったんですね。


いろりばたマーク

後半に続く

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たんぽぽ舎新刊パンフレット「被ばく者」

肥田舜太郎さん講演録「58年間ヒバクシャを診てきた」

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